「やべぇ、マジ疲れた」
って最近感じている。
理由は単純に、労力を消費し過ぎているから。
学業が超忙しいのに学内イベントの企画でしゃしゃり出たり、インターン先で新企画に取り組んでみたりなかなか蕁麻疹ができるほど「意識高い」生活を送っている。
スローライフが好きな性分ゆえ、望んではいない。
灰色
疲労は脳を支配する気がする。
今日、インターン先から出たとき雨が降ってきた。
僕は傘を持っていた。だけど、刺さなかったんだ。
空を見上げて、コンタクトに雨が入って我に返った。
何してんの俺...。
空の灰色はいつにも増して濃く見えて、どこからがコンクリートのビル群か分からなかった。
世界は誰かの仕事で出来ている
僕はこの言葉が大好きだ。
山田孝之のCMがおもしろいということもあるけれど、世界は誰かが汗をかいているから回っていると思うと全てに優しくなれる気がする。
「ありがとう」
を言いたくなる。
でも、たまにこの言葉が嫌いだ。
「世界が誰かの仕事でできている」
から、お前は弱音も吐くな。と僕の中の汚い部分が言い換えて襲う時がある。
僕は小さい時から
「○○も頑張ってるんだから、へこたれるな」
という言い方に違和感を感じてきた。いや、僕の性分がねじ曲がっているから僕に非がある時もあった。だけど、全部に納得できなかった。
イモト
『世界の果てまで行ってQ』が好きでよく見る。
先日、特番放送で珍獣ハンターのイモトがアイガーという険しい山に登っていた。
素直にすごい行為だったし感銘を受けた。僕にはあれはできない。
親が言った。
「イモトがアイガーで頑張った。あんたもがんばりなさい!」
確かに言い分はわかる。
並々ならぬ苦労に耐えてイモトは頑張った。感動を与えてくれた。
僕だって簡単にへこたれず根性で困難に立ち向かうべきなのかもしれない。
だけど、言われて不快なのはなんでだろう。
イモトはすごいのに。良いことを親は言っているのに。なぜか腹正しい。
「世界は誰かの仕事で出来ている」
分かっているけどベクトルが違うことには共感できない僕らしい。情けない。
「疲れてる」僕が嫌い
疲れを言い訳にする人を見ると腹が立つ。
「で?」
と思う。
だから今の自分のこのブログも嫌いだ。
疲れてる人は、「頑張ってるね」で満たされるわけでもない面倒な生物。
何も求めてはいないのに口走る。「はぁ、疲れた」と。
それは聞き手をもイライラさせやしないか。
僕は不快だ。
でも、疲れたらわかるけど、それを口走る段階でそいつの脳はそいつのもんじゃない。疲労感の使者の物だ。
人間、どうしたら「疲れ」とうまく向き合えるんだろう。