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震災から5年

AYUKAWAの記憶

3.11 東日本大震災

2011年の3月11日の午後2時46分に起きた地震から始まった悲劇のことを

私たちは忘れるべきではない。

これだけはブレてはいけないと感じている。

僕は、当時中学3年生。
東京ディズニーランドで卒業遠足の真っ最中だった。

埋立地にある夢の国は、大きく揺れた。

生まれて初めて、「立っていられない。」

と思った。

今となっては、失礼かもしれないが正直に言うと

「死ぬ!!」

って思った。

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揺れが収まった後、キャストにシンデレラ城広場の方へ誘導された。

怯えるゲストと裏腹にキャストの言動は、

訓練に訓練を重ねたそれだった。

キャストだけでなくキャラクターの振る舞いも。

迷いのない誘導、消えない笑顔。

どれだけ中学生の僕が勇気づけられたか。

2011年の3.11は寒かった。

制服しか身にまとっていない僕らは、広場で凍えていた。

しかし、その辺も神対応。

毛布的なものが配られた。

お腹がすいた。喉が渇いた。

すると、キャストがポップコーンや水を提供してくれた。

液状化も園内は起きず、シンデレラ城が難攻不落の堅城に感じた。

本当にディズニーランドは素晴らしい。

夢と安心の国だなって思った。

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東京は脆い

3.11のその日、ディズニーランドやその周辺で一晩明かすこともできた。
京葉線が止まったためだ。

しかし、バスできていた僕ら。

その日のうちに夢の国からの帰路に着く選択をした。

バスの中で初めて

「津波」

をみた。

そこで初めて、僕が園内で揺れの最中に感じた

”死への恐怖”

への馬鹿馬鹿しさと申し訳なさを抱いた。

千葉県内の道路は空いていた。

だから何も困らなかった。

ひたすらテレビでニュースを見ていた。

街が海になっていた。

東京に着いた。

テレビでは海が燃えていた。

不思議でおぞましい光景だった。

目をつむった。

ふと気づいた。バスが動かない、と。

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先生が言った。トイレ休憩にします、と。

バスを降りた。SAだと思った。

しかし違った。そこは一般道だった。

東京パニック

何かに怒っている人が大勢いた。
トイレを借りたコンビニは何も売っていなかった。

連絡がつかないと不安がる人が大勢いた。

そうした人が見つめる物は携帯電話。

彼らの命綱は見えない伝播なのだ。

東京が嫌いになった。

国会議事堂の端から端へ抜けるまでに二時間。

果てしない帰路に思われた。

僕はいつしか眠ってしまった。

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だから僕は高校を辞めた

3.12に予定されていた、

高校のクラス分け試験がなくなった。

交通機関は大きく乱れたままだったからだ。

そのせいなのか、どうなのか、

僕はそのクラスに馴染めなかった。

震災のせいなのか?

僕はそう思うことにしている。

この話は今すべきではないか。

5年。

早い。僕は20歳になった。

もう5年経つと多分就職している。

早い。時は流れる。

夢の国で味わった経験やその後のインパクトを忘れなずに生きたい。

人は忘れるから人なんだ。

だけど、これは忘れるべきじゃない。

皆さんはどうですか?

なにをしていましたか?あの日、あの時・・。

最後に、

亡くなった方々への哀悼の意を示すとともに

いつの日か来るべき、真の復興のために

合掌

次は、5年経った今日感じた、「シェア」に対する考えを書くつもりです。